#篠山紀信の公然猥褻容疑だが、例えば背景のスチルとライトフィールドだけを撮って置いて、あとから人物を http://gl.ict.usc.edu/Research/LS5/ こんな感じでrelightingして合成したら容疑は避けられるよな。そうしないのは、やっぱりその場でやるっていうライブ感とか緊張感の問題だろうか。 #それもあるし、手っ取り早いってのもあるだろうし
#あと、スキャンダル
#最近影が薄かったからね >篠山紀信
#いい宣伝ですね :)
#その場の思いつきでポーズとってみたら意外と良かった、みたいなのを期待して現場へ行くんですかね。
#そういえば、どっかの海岸で、ヌード撮影会やって公然わいせつで捕まった人もいましたね。
#まぁ、その場の光でなきゃ写せないものがあるのも事実だと思いますけど
#しかしなぁ、青山墓地でヌード撮影って、いつやったのか知らんが、モデルは大変だったと思うぞ
#あそこは蚊がすごいんだ
#嫁の実家の墓があるんだが、盆の墓参りなんか虫除けスプレー+携帯蚊除け器で武装しててもボコボコにされるもんな
#「その場の光でなきゃ写せないもの」を何とかしようというのはlightfield captureとrelightingですな。HDRも併用するとかなりいけるレベルだと思いますが、動画で違和感無くできても静止画だとアラが見えることはありますね。
#あと、それはどういう光が欲しいかがわかっている場合は有効だけど
#自然の悪戯で思いもかけないような素晴らしい光が得られる、という効果は期待できない
#と思うのだけど
#それはそうですね。あとそれに対するモデルの反応というのも。
#それと、篠山紀信にとってどちらが楽か(手間が省けるか、自分のものとして扱えるか)という問題もある(笑)
#まぁあの人はスタジオ撮りもやる人だから、ライティング自体は得意だと思うけど
#そう考えると写真の方が映画より「ライブ」なのかもしれない。映画は、手持ちカメラでの一発撮りとかでなければ、何度も同じシーンを撮らないとならないので必然的にある程度プランが入ってくる。
#まあ程度問題で、フランク・ダラボンも「ショーシャンク」では緻密にプランしたけど「ミスト」ではその場でどんどんインプロバイズしたって言ってたけど。
#スタジオやセットの場合と、ロケの場合じゃ違うでしょうからね
#思い描いた光を求めて何日も待てる予算や政治力のある監督ばかりとは限らないし
#チームプレイの度合いが高まるほど、ライブは難しいんじゃないでしょうか
#チームプレイの度合いなのかな。成果物の見方のような気もする。舞台はチームプレイだけどライブだし。
#舞台の場合、毎回違うよ、毎回理想どおりじゃないよ、っていうのが約束になってるわけで。
#ああ、確かにそうですね
#映画だと同じ場所、同じ日時の二つのショットで光が違うのは許されない、とかそのへんの違いなんじゃないかな。
#それをライブに撮るか、断片ごとに撮ってつなぎ合わせるかは手法の問題ですね
#写真は瞬間を切り取れるのでコンティニュイティーの縛りがゆるい、したがってよりライブにできる、ということか。
#映画だから、ということではないのかも
#現代の音楽の作り方にも似てるか
#ライブに一発録りするか、パートごとにダビングするか、断片を録ってソフトウェア上でエディットするか
#「つなぎ合わせる」ところにコンティニュイティーの制約が入ってきて、ライブしにくくなるってことか。一シーン一発撮りなら自動的にコンティニュイティーは保たれる、したがってライブできる。
#マルチカメラでやる撮影方法もありますからね
#音楽のライブ映像みてて、同じ歌の中でカメラが切り替わったら髪の毛の位置が逆で噴いたことがあったな(笑)
#でも、マルチカメラでも一発撮りは相当制約がありますよ。通常の映画の文法である、ロングショットで場面をエスタブリッシュした後クロースアップで細かい演技を捉える、ってことがとても難しい (ロングショットの視野の中にクロースアップ用のカメラが写り込んじゃったりする)
#ああ、確かにそうですね
#音楽の方がそういう制約はずっと少ないですね。
#ですね
#余計な情報を排除するのが、音の方がずっと楽だってことかな
#マルチマイクにしたところで、他のマイクに干渉することはないし
#昔あるCDで、ブレイクで無音に近くなった瞬間にボリュームを上げると、かすかにクリックが漏れているのが聞こえる、ってのがあったけど、そのくらいだもんな
#写真には「真実を写す」という建前があるので、「画を作る」ことに対して映画とは別のスタンスがあるはずです。そういうことじゃないでしょうか?
#いやあ、表現手段としてはどちらも幅があり (報道写真vsモデルによる撮影、ドキュメンタリーvsストーリーテリング)、建前で切れるものじゃないんじゃないかなあ。メディアの違い、及び作られてきた文法=観客の期待の違い、あたりが主要な理由のような気がします。
#たとえば商業カメラマンにモノの写真を撮ってもらうと、背景の映り込みや照明を非常に気にします。照明によって写ったモノの色が変わってしまうからです。照明や壁紙の色によって、写るモノの印象が操作されてしまうからです。
#あとは、レンズ(広角で撮るか、望遠で撮るか)によって写るモノにも歪みが発生します。この歪みが強くなってしまうのも、モノの撮影には嫌われます。ジュエリーなんかの場合も、いかにカメラなどが映り込まないで、かつ正確な色が写真に出ているかも問題になるようです。
#んー
#そこまでは映画でも同じですよね。で、写真の場合、そこに偶然に写り込んだ何かとか、たまたま効果的な画が出来た、というのがそのままプラスになり得るのに対し、映画ではそれらの偶然が原則として別アングルからの撮影と矛盾しないこと、という制約がかかる、ってことじゃないでしょうか。
#そういう意味で写真のカメラマンは、いかに正確に写すか(あるいは写真を見た人を騙さないか)を基本テクニックとして身に付けるようです。で、そういう基本を身に付けたうえで、「騙し」的テクニックをあえて使用する場合もあるはずですが。
#それは「真実を写す」なのか、「雇い主の意図に沿って写す」なのか
#それぞれのケースで、画を作ることがどこまで許されるか?って話なんだと思います。
#ああ、私はそれはやっぱり画を作っているのだと思いますよ >ふじさわさん。
#や、もちろん、どんな写真でも画は作られているんです。
#フレーミングしている時点で絵作りですしねぇ
#「これを撮ろう」と思ってシャッターが押された時点で、撮影者の意図は込められてしまっています。
#商業写真の例は、やはり「見せたい画」というのがあって、それに近づけるように作っている、ってことだと思うんですが。
#それはたしかにそうですね。
#ただ、写真を見たユーザーが実物のほうも見て、「これは違うじゃないか」と言ってきたら困るというのが、写真と映画の違いとしてあるはずです。
#許容できる嘘の範囲が違うというか。
#ミュージックマガジンの写真を撮っている友人に、とあるミュージシャン(女性)の元のポジ(8x10)と雑誌に載ったのを見せてもらったことがあるんですが
#まぁ、ちょっとなぁ、個人的には許せん、というか(笑)
#それが上でちょっとかいた「観客の期待」ってことで、カタログ写真の場合、観客は写真を見て得た印象と実物を見て得た印象が近いことを期待している、ってことですよね。
#まぁ、あの年齢の女性を8x10で撮るってのがむご過ぎるんですが
#映画の場合も、観客はある一定の約束事に沿った一貫性が保たれることを期待してて、それが破られることには非常に敏感です。
#「観客の期待」。そうですね。映画も写真も同じ制約のうえで作られています。
#ただ、そこにあるのは「観客の期待」だけじゃなくて、「作り手達が作ったルール・基準」もあるんだと思います。
#写真の絵作りはどこまで許されるかは、観客も意識しているけど、写真家たちも非常に意識しています。
#双方がフィードバックしあってるって感じはありませんか? 作り手が基準を作って、それに慣れた観客が一定の期待をするようになって、すると作り手もその期待を気にするようになる、といった。まあ作り手の方が意識的なぶん、プロとしての矜持みたいなものを意識して持つのだと思いますが。
#とくにデジタル以前の写真家にとっては、relightingみたいなものは邪道と見なされる傾向にあると思います。
#でも、それは写真家個人の表現として撮る写真か、クライアントのいる写真かによっても使い分けていると思うんだけどな
#写真家のあいだでも、いまはアナログカメラからデジタルカメラへの過渡期にあるので、価値観のぶつかりあいがけっこうあるようです。
#職人としてのプライドはあるかも。フィルムに焼き付けたもので勝負って考えなら、relightingは邪道でしょうね。
#relightingはNGだけど覆い焼きはOKなのかしら?
#デジタルになって、アナログのころにはできなかった絵の作り方ができるようになっています。それをどこまで許すか、とか。
#お、覆い焼き。そうなんですよ。
#でも商業写真の目的(だと思うんですが)である、観客の驚きを最小にするのに役立つのであれば、手段は何でも良いのでは、とも思うんですね。それは職人的価値観とちょっとずれる可能性はありますが。
#だいたい、写真の場合、撮影者とプリンター(紙焼きを作る人)が別だったりするしね
#映画だと当たり前ですが
#昔から覆い焼きは行われていて、つまり「この部分の色をもっと強く出して現像しよう」みたいな画像の加工じたいは行われていました。だから昔から、「意図に沿う方向への加工」というのは容認されていたんですよね。
#こだわる人はポジで撮ったりしてませんでした? >(び)
#何にこだわるかによりますよね
#ただそれが、「さすがにやりすぎるとNGでしょ」というのが昔も今もあって。今回の話も、その線引きをどのへんに置くかということなんだと思います。
#プロカメラマンが仕事でポジを多用してたのは、印刷入稿に要求されていたからという側面が強いようですし
#「紙に焼いて初めて写真だ」という人は、ネガかポジかはあまり気にしないと言っていた
#なんとなく、このへんの「作り手の矜持」≒「観客の期待」の話は、プログラミング言語における「驚き最小化」とかの話にも通じるような気がする
#なるほど >(び)
#だから、仕事はデジタルカメラ、自分の表現としての写真はモノクロネガ、という人がけっこういるみたい
#たまたまわたしの友人がそうだってだけかもしれんけど
#でもさー、きっとフィルムカメラが出て来たときも「やっぱり写真はガラス乾板じゃないと」って声はあったんじゃないかと思う
#あーでも、写真をやる人には「切り取る」ことに価値を見出す人と「描く」ことに価値を見出す人がいるのは確か
#前者は、確かにふじさわさんが言うように、「記録したものを改変する」ことを嫌悪する傾向はある
#トリミングすら「したら負け」と言ってる人がいた(笑)
#メディアの進歩にともなってそういう幅が出てくるって面もあるのでは。音楽でも似たようなことはありそう。私はクラシック/アコースティック好きなんでどうも加工は苦手。
#多いっすよね
#ギターなんかだと「リアンプ嫌悪症候群」とか「エフェクター嫌悪症候群」とか(笑)
#そういえばピアニストの書いた本で、プロのピアニストが録音する時に「つなぎ」をやるかどうかって話に触れてるのがあったな。やっぱりつなぎは邪道と考える人もいれば、ばんばんやる人もいる、とか。
#つなげるように録音するのって、難しいですけどね
#宅録やってても、「4小節パターンを弾いてループすればいいや」とか思っても、実用に耐えるループ素材が録れない(笑)
#1発録りで要求されるのとは別のスキルな気がする
#プロだと毎回かなりコンシステントに弾けるからむしろやりやすいとか。クラシックの録音の「つなぎ」は、テイク1の前半とテイク3の後半をつなぐとかそういう感じです。
#だから、自分にないスキルが要求される手法を拒絶しちゃうんじゃないですかね
#クラシックでもつないだりするんですか
#それは知らなかった
#楽章ごとに別に録るとかそういう話なのかな?
#クリックなしで途中でつなげられるとは思えないんだけど...
#いえ、一曲の中でつなぐそうです。テープ時代からあるそうで。私の読んだ本では、結構やられてるってことでした。ただ大っぴらに言う人はほとんどいないけれど。
#えー
#肝心の本の題名と著者を思い出せない…
#ポップスみたいに、基本同一曲内は同一テンポならわかるけど、クラシックみたいに曲の途中でばんばんテンポが変わるものを途中でつなぐなんてすごい
#クラシックじゃないけど、「春の祭典」なんて途中でつなげられるように録る方がよほど難しいんじゃなかろうか
#いや、つなぐ場所は一点だし、テンポはプロなら毎回ほぼ同じにできるでしょうから、そんなに難しくないのでは。
#なるほどねぇ
#春祭もたとえば「いけにえの踊り」の8分休符のところでつながれたらわかんないんじゃないかな。
#わかんないかなぁ
#俺なんかはだまされそうだけど、耳のいいクラシックファンなら聴き取りそうな
#まぁ、ピッチを変えずにテンポを変えたりもできるから、そういうこともやってるのかも
##Amazon.co.jpだと1,414円
#安っ
#とりあえずポチりました(笑)
#うお、円高。
#まぁとにかく、写真と映画とでは、「期待されるモノ」が違うのかなぁ。
#写真では、「作られたもの」ってのが嫌われる傾向にある気がします。
#たとえば風景写真。
#写真でくくっちゃうと広くなりすぎませんか?
#風景写真を見て感動するのは、その風景が世界中のどこかに確かに存在していることを知って、その世界と自分の世界がつながっていることを想像して感動するケースがあります。でも、その写真に写った風景が、実際には世界に存在していないと聞かされたら、がっかりするみたいな。
#そうですね。「写真」でくくっちゃうと広くなりすぎます。。
#風景写真に対応するようなドキュメンタリー映画でも同じことが言えちゃうと思うんですよね
#そうですね。まったくそのとおりだと思います。
#一方で、森村泰昌(この人が写真家かどうかはさておき)みたいに、徹底して作り込んだ写真を撮る人もいるわけで
#どなたかFranzセミナーに行かれる方いますか? 某T社は全滅かも
#今回のグラビア写真のケースは、(意見が分かれる人もいるかもしれませんが)、風景写真やドキュメンタリー映画のような楽しみ方を適用するのが妥当なのかなぁ、と。
#件の写真を見てないので、いい加減な想像ですが
#今回のはモデルが AV 女優だから、そもそもスタジオでブルーバックでポーズをとってもらうのも難しそうですけどね。
#エロさの増幅器としてライブなシチュエーションを流用したってことなんじゃないのかなぁ(笑)
#ポルノじゃない普通の女優ならそれでもうまく演技をするかもしれませんけど。
#静止画に耐えられるようなクォリティの背景をCGにせよ合成にせよ作り込む手間を考えたら「ええい、現場は近いんだし、いったれ」となると思う
#それに、こうやって騒ぎになればいい宣伝になるしね
#おお、話が一巡した。
#ところでフィルムからデジタルへの移り変わりと、写真の加工に対する職人的反応というのは、バイナリからJVMへの移り変わりと、CPUに直接触れないことに対する職人的反応というのとパラレルになってるようななってないような。
#Franzセミナーはどのくらい集まるんだろう。
#自分が培ってきたスキルやノウハウが適用できないものに対する拒否反応ってことでしょうかね
#信頼っていう要素もあるかも。知っている媒体だとどこをどうすればどうなるのかわかるけれど、新しい媒体やプラットフォームだとこっちが意図してやったことにちゃんと応えてくれるかどうか信用ならない、というような。
#でも結局、本当に優れた人は古い技術に対するスキルの上に新しい技術のスキルを培って、さらに厚みを増すわけなので
#ああ、あるんじゃないですかね
#わたしの若い頃ですら「コンパイラなんて信用ならん、自分でアセンブリ言語で書かないと」って言ってた人いたし
#違う分野だと、NC旋盤なんかでもそうでしたしね(育ちが町工場街だったのでそういう話は見聞きしました)
#そういう疑いの目を持って叩く技術者が本気で使ってくれないと新しい技術は成熟しないでしょうし
##これってさっき教えてもらった本の和訳かな?
#原書に比べて高いなー
#Franzの中の人によると19日が35人ぐらい、20日が70人ぐらい。Shibuya.lispと同程度の規模ですね。
#lazyな式を最終的な値にまで評価する意味でrealizeが使われてるんだけど、日本語で定訳ってあるかな?
##ちょっと面白かった :) RT : shiro: Ken Thompsonがついに念願を… http://bit.ly/9XPY9 http://bit.ly/3vQ4bh #CがUNIXを書くために生まれたように、GoogleはGoでOSを書くべき。手始めにAndroidのソースを全部Goで書き直して欲しいナリ